昭和四十九年五月二十五日 朝の御理解
御理解第八十一節
氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。
何日か前にも、ここのところを頂きましたですね、その時に向こうへ降りたら安心じゃというところを、もうこの氏子は大丈夫と例えば神様が安堵してくださる、安心して下さるというところまでが十里の坂を登り切って向こうへ降りたという意味だったと思います。神様が安心して下さる、もうあの氏子はあそこまで成長したから、もう後はひとりでにでもいいというようにです、信心の成長の姿勢というものが、神様え安心して頂けるところまでの信心をいうのだという風に頂きましたですね。
今日も私そこんところをですね、安楽境ということを頂いたわけです。神様がどういうような信心をさせて頂いたたら、安心して下さるだろうか、もう毎日毎日一生懸命、それこそ雨が降っても風が吹いてもお参りをする非常に熱心である、だから神様が安心して下さるということじゃないと思うです。お参りをさせてもらう、信心のけいこをさせて頂く、その焦点がいわゆる定かでない、そういう信心でです、例えばいかに日参り、夜参りができても、神様は安心して下さらない、絶対のもの間違いのない、そこえ信心の焦点がおかれて、信心のけいこをさせて頂くという姿勢を作つたところからです、神様はお喜び下さり、それが段々その信心に楽しみができてくるようになったら、神様が安心して下さる。
そこで、その目指させて頂くということが、どこにおかれておらなければならないか、信心のけいこをさせて頂いて、どうぞ病気が治りますようにとか、今日もどうぞ商売が繁盛致しますようにとかというような例えばことが一生懸命の信心であったのではです、いつまでたっても、それは十里の坂を登りきったことにならない、そういう信心から本当のことをわからして頂いて、その願いにそうて、その願いに向つて、信心が進められていくということになったら、まず神様が安心して下さる。
氏子信心しておかげ受けてくれよと、氏子真実、信心によって幸せになってくれよということは、どういうことかと、昨日は北野の秋山さんところの謝恩祭でございました。大変行き届いた、あそこの場合いつも感心致しますことは、子供達が全部遠方に行っとる、嫁に行っとる娘さん達も皆んな帰ってくるのですよ、丁度村祭りかなんかの時親せきから集まってくるようなものなんです。それぞれにお供え物を、その土地土地の名産といったものを持ってですね、そしてあのお三宝は私が、このお三宝は私がおかげ頂くという風にして子供達がおかげ頂く。
もう何ともいえん雰囲気の中に宅祭り、おかげ頂くわけです、お茶は私が持っていくから、お茶菓子の方は心配せんでくれと、手紙が前から来てる、それぞれの思いを込めて一家を上げて一年の神恩報謝のお祭りがあるわけです。本当に私は昨日秋山さん達夫婦に申しましたことですけれども、宅祭りというものは何て有難いものだろうか、もう有難くさせずにはおかんという働きがあるようだねと、話したことでした。
もし宅祭りをして有難いというものがなかったら、もうそれは謝恩祭の値打ちはない、けども合楽の方達の場合は、もうそれこそ、そこに信心がかけられるですもんね、例えば、一月ならひとつきはもう日々神様がお喜び頂けるような、お祭りが仕えて頂きたいという願いをこめて、もう一生懸命の願いをされるところからです、期せずしてお祭りの雰囲気というものが、もうどんなものでも有難くならにやおられないような雰囲気をそこにかもしてくるわけです。
ですからそういう行き方が、例えば宅祭りが終わったからやれやれではなくて、そういう例えば、実意なというか、真心というか、そういう日常生活が出来る所にです期せずして、いつも有難いという心の状態が与えられるのだと、有難うなろうとしてなれるもんじゃない、やはり、真心いっぱい、実意いっぱいの宅祭りという、そういう願い、思いがです信心を引き締める、そこに期せずしてお祭りが有難いものになってくる。期せずして、もう神様に与えられるものなのだから、だから、そういう宅祭りを仕えるような心掛けでです、お商売をしたらよいのであり日常生活があられたらよいのですよ、だから有難いということになる。
昨夜、あちらで御祈念中頂いたことですけれども失思させて頂いておった、こちらえ帰って神様へお礼申しておりましたら、思い出した。これは昨夜遅うに思い出したということは、明日の朝の御理解になるじゃろうと私は思うておった。それでまあ、結局今日の安楽境とつながるような感じがするんです、安楽境、いつも心が安らいでおる、心が楽な。昨日、あちらで聞いて頂いたお話の中に偉大な信心、いわゆる大きな信心ということを内容としてお話しさせて頂いた、丁度、昨日お参りし合わせとりました三人の支部長サン達の信心を、私が日ごろ感じておるところを聞いて頂いた。秋永先生の場合、先日から英治君が高松さんの所え行って、最近お父さんの信心の偉大さというものを、ようやくわからして頂いたという意味のことをいうたというてその事を和子さんがお届けしてありました。
どういうところに父親の信心お偉大さを感じたかというと、もうだれがみてもです、だれが聞いても、どうかそこにいわなきゃおれない、といったような問題が次々とあるけれども、もう最近の合楽の信心である黙って治めるという、そこに徹してるようである、もうこれには本当に恐れ入るという意味の、いわゆる父をそれだけ尊敬することができるようになったと、父の信心が偉大だと、確かに偉大だと思いますね、久留米の支部長の佐田あんの事を例にとって話したことですが、神様から立教神伝と同じ、いわば文句の事を頂いた。
この弊きり境にという、難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれ神も助かり氏子も助かることだからと、切々として神様が、お頼みなっておるのが、立教神伝なんですよね、その事をです、言葉をちょっと変えてです、もう切々とですね、それこそ欲を放してお商売をしてくれよという願いなんです、もう佐田さんの商売じゃない神様の商売として、という事なんです、なるほど例えば、〇〇商店という看板でわあってもです、その内容がです、神様がなさっておられる商売、その商売をです、ひとつ、いわゆる難儀な氏子の為に取次ぎ助けてやってくれとおっしやるように、そのお商売の事を神様がいわゆる神頼みになる、そういうお知らせであった。
ですからその線に沿うてお商売をさせて頂くんだと、まあ意気盛んなところ、皆さんが御承知の通りです、佐田さんの信心の素晴らしいところはそこですよ、何処までもその事業であり商売であり、その仕事がです、ただ自分の仕事、自分の繁盛、繁栄という事のために、どうぞお願いしますという信心だったら、偉大さというのはありません、それだけのものですそれを神頼みのまにまに神様のお商売として、自分がその事に一生懸命精進させてもらおう、神様の願いが〇〇商店の上に成就していくことのための精進を本気でさせてもらおう、その立教神伝ふうのお知らせを頂かれて一段、その思いを固めておられる様子を、佐田さんの信心から感じる事ができる。
大きな信心という事はですね、偉大な信心という事は自分自身が楽になるんです、どういう事が起こってもです、そういう大きな神様の大きな願いに、立ち向かっての信心ですから、たとえ難儀な事があっても、この位な修行は当たり前という頂き方ができるです、楽です。いわゆる今日私がいう安楽の境地というものはです、そのような信心から生まれてくると思うです。大分の支部長であるところの綾部さんの信心、まあだ信心は若い、けれどもまあ二年間あまりの信心を通してです、信心の進展して行かれる具合というものがです、こういう行き方でいくならば、おそらく神様が喜んで下さる、安心して下さるだろうという信心の線にそうていきよんなさるという事なんです。
これは昨日の朝の御理解を頂き終わられてからのお届けでした。若い人達がやっておる商売というものはです、どうも甘いところがある、だからもう一遍自分が第一線に立ってやろうかなと、時々思う事があるけれども、今朝の御理解、頂かせてもらよったら、もうその事は神様にお任せして、いわゆる昨日の朝の御理解、本当の信心の焦点を眺めさせて頂いて、そこに私は打ち込んでいく、そこにいよいよはまった信心をさせて頂く以外にはないんだと感じたと、神様が安心して下さった、実際自分の我情我欲といったような事は任せて、ただ神様に一心におすがりしていくと、
私はいうなら信心係だと、御祈念係だと、というような三人の支部長さんのいうなら偉大な信心というか、いわゆる我情我欲の為にどげん一生懸命日参り夜参りをしたところでです、それでそんならいつまでも、それはいくら登ったところで、十里の坂を向こうえ降りるという事にはならない、神様が安心して下さるという事には成らない。
昨日参って来てから、お届けをすることなんです、「先生おかげ頂いて、昨日一日、おかげを頂いていろんな、もういわにやおられないといった事が、何回もあったけれども、おかげでいわんですむ修行をさせて頂いた」というお礼のお届けがあった。そして、親先生、言わんで済むことが有難いということは、まだわかりません、だからいわんですむということは、大変に苦しいことですと、いわゆる黙って治めるという事ではけしてありません。そこを繰り返し繰り返ししていくうちに、治まるおかげ頂けるだろうと思うて、その事を修行と思うて、昨日一日おかげ頂いていわんですみました、というお礼のお届けでした。
私はそれ聞きながらですね、いわんですむ黙って治めるということは黙ればもうその場で治まる事じゃないということ、おかげはいっやらわからんということ、けれども黙れとおっしやるから黙るんだという修行に取り組んでおるのですから、まだ有り難いものをまだ感じきらんのだけれども親先生がいうて下さる、その黙ってのところだけは昨日一日出来ました、今日もどうぞと、もう日々をです、そういう願いをしていこうというのである。昨日一日は出来ましたから、今日一日も、どういうことに直面致しましても、言わんで済むおかげを頂かせて下さいと、私はもうそれを聞いてびっくりしました、そしたらね、神様からお知らせを頂きましたのが、新鮮な、今もぎたてといったような、ビワをね三宝一台お供えしておるところを頂きました。
そしてその次ぎに頂くのが、虫がついたというか、もう熟しすぎてというか、ポロンポロン落てておるビワを御心眼に、私はそれを頂いてからいろいろ思わせて頂いたことんなんです、例えば、我情我欲を離れて等ということは、とてもとても、まあだ若い間は我情我欲がいっぱいあるがよか、そげん、もう年をとってからでんよか、まあだ早すぎるてんなんてんということじゃない、もう我情我欲をいうたっちや同じことじゃけんであきらめたというくらいでね、我情我欲をいわんごとなったっちや、もうぼてぼて落ちた果物のようなもんじやけん、神様が受けちゃ下さらん。
今こそ若いうちにです、改まるところは改まらしてもらうという、例えば、そんなら、タバコならタバコをのみよるとしますか、だからまあ、五十位までのんでから、それからやめようということくらいのことではね、もう今お供えしなければ新鮮なものじゃない、果物は新鮮さが値打ちであるから、神様にお供えするなら、やはり、新鮮なうちでなからにやいけん、成程、例えば、黙って治めるといったことがです、黙っての修行ということがです、まあだこの若さで今から続けられていくなら、しかも日々です、昨日一日はやっとかっと出来ました、今日もどうぞそのことに取り組ませて頂いて、いわんですむおかげを頂かせて下さい、というような信心が、段々積み重ねられていくならです、必ず治まるおかげが受けられるだろう成程、黙って治めることの偉大さがわかるだろう。
若いうちにそういう信心にならにや神様が受けちや下さらない、私はそのことを思わせて頂いてから、皆さんが御祈念しよんなさる時に青雲さんの句集をチヨット聞いてみたんですよね、そしたら頂くことがね、こんなことを頂いた「腰の手の裸線香や彼岸花」、もう私はこういうことを頂いてから、こうして御理解を皆さんに聞いて頂いてから、不思議で不思議で有難うして有難うしてたまらん、私の思いがこれ、今私が信心は、若いうち。しかも本当なせんにそうてからさせてもらわなければ、腰の手のはだか線香やということは、も、腰が曲がってござるばあさんのことでしょうつえをついて、そして後手にはだか線香を持っておるお寺参りか、墓参りのありよることでしょう。
いうならもうあの世ゆきがちこうなったから、いわゆる後生願いの信心をするといいますよね、若い時はお寺さんなんか参りやせんけれども、年とったらお寺さんに参ったり、お墓の守りをしたり、腰の手のはだか線香や彼岸花、お彼岸につえをついて、腰が曲ってござるから、後手にこうやってその手にはだか線香を持ってござるという姿、まあ素晴らしい句ですよね、けれども今日私がいおうとするところはそれなんです、もう年とってからね、極楽行きの稽古をしようというたっちや、もう駄目だて、これは、もういうなら、新鮮な果物が塾してからね、もうお供えものにもならんごっなってから、改まりますというたっちや、もう神様の方が受けちや下さらん、そげなお供えは。
もうお互いですね、信心の若い時にですね、本当の線にそうて出来る出来んは別です、けれども本当の安楽鏡を目指さして頂くという信心。昨日頂いて、こちらへ帰って思い出したというのは、「酔生夢死」ということであった、この意味は無意に一生を過ごしたという意味なんです。なあにもすることもなしに、世の中の為にもならん、ただ飲んで食うて、ちょいと、というような行き方をいう訳なんですけども、私はこれを頂いた時にです、私はこれを合楽流に御理解づけたら素晴らしい事だと、こう思わせて頂きました。
いうならばです、有難い勿体ないに、酔いながらの一生でありたいと思うのです。有り難いどげん考えても勿体ないと、そういう時には、例えば酒に酔うた時に暑さ寒さを感じないように、いわば苦労も苦労と感じないように、信心の有り難い勿体ない、という時には、もう苦労の中にあることが、かえって有り難くなってくる。そういう信心を目指さしてもらって教祖の神様が御年七十で亡くなられた、その時にもうそれこそ、お最後のお言葉がです「あ~心安し」という一言を残されて、この世を神去られたという、いわゆる、あ~心安し、もう思いおくこともさらさらないという境地なんです。
なるほど死ぬるということは、誰だってそのことを思うたら身の毛がよだつようにあるが、人が死ぬると自分も寂しゆなる、悲しゆなる、いよいよ自分も死ななきゃならんという時にはそれこそ恐怖心がわいてくる、これが普通です。けれどもね、信心させて頂いてのギリギリのところは、この死生の安心というものが、私は願いだとこう思います、ですから、このようにして有難い稽古をさせて頂くのであるから、この有難い心があの世にもつながるんだと思うところに死の恐怖ということもなくなるだろうけれども、私はこの夢死ということ、夢の中に死するということ。
これは今申しますように、人間がなすこともなしに一生を終わるという意味でしょうけれども、合楽的にここのところを御理解頂くならです、本当に夢の中に死せれる事を信じてです、生活が出来るということだったら死に対するところの不安がさらさらなくなってくると思うです。ああ苦しい苦しいというのではなくてです、夢のうちに、もうあの世行きしておるこれは例えば、私の流儀なんですけれども、例えば、はれものがしたりいろいろしますけれども、ちよいとつついてウミを出すとか、切ってからとか、、、、私はここに座っとりますから、座りだこの大きいのができますよね、けれども自分でとったことは一遍もありません。
大きくなってくるとですね、アッというまに、布団にひっかかるとか、何かにひっかかってから、もうアッという間にとれとる、チカッとするまもない、いわゆる夢の中に死んでいくとはそういう意味なんです、私みたいに臆病な者は、これを手術してからださにゃんとかは、えずか、死の恐怖というのはそんなもんなんです。死ぬときや苦しかろうと思うけれども私共が常日ごろに、それこそ、酔うたなかに生きていく酔生、有難、勿体ないの中に生活ができる、そういう信心生活をさせて頂いておればです、これはもう私の体験ですけれども、その怪我のそれと同じこと。
怪我するのはするけれどもがです、それがいつの間にか痛まんで、まあいうなら、楽しみながら死んでいけるという、先日も繁雄さんが、ここのところに、こんな大きなくいのようなものがのこっとったんです、それでちょいと扱うてみて下さいと、このくらいのくいがちゃあんとのこっとる、だからちょいと普通の者ならちょいとこう出せばよかろうけれども、こちらも私と同じこつで、ちっとおく病なんです、だからそのままじっととっちやる、私もその行き方です。
それが何かの調子にひっかかってですね、その大きなくいがポロッと取れたというのです、だから痛い思いもしなければ何にもない、恐いこともない訳なんです、そういういうならば死に方が出来るようなおかげを頂きたい、「あ~心安し」なんです、そういう信心を目指すということなんですよ、本当の信心というのは、そういう信心を身につけていくという、そんなら、そういう信心をを目指していくひとつの過程、その内容がです例えば今申しますならば、昨日私が御取次させて頂いた、ある青年の方じやないですけれども、昨日も一日おかげを頂いて黙って、いわば治めることはできませんけれども、黙って修行させていただきました。
有難いこともなければ、治ることもないけれども、これを日々繰り返させて頂きよったら、治まることに違いはない、有難いことになっていくに違いはないと信じて、そういう修行させて頂く、そしてなるほど黙って治めるということは素晴らしいことだなあということなんです。そういう信心を私は偉大な信心と思う、私は昨日、その話を聞きながらです、なるほど黙って治める、治めるといやもう一日グウグウいうてこらえとりましたら、夕方はもうちゃんとおかげ頂きましたと、治まっとりましたというように簡単に答えは出て来ない場合も沢山あるということ。
けれども、それが修行なんだ、それでそこんところをです、こぎざみにねもう日々をです、今日も一日どうぞいわんですむ修行させて下さい、おかげを頂かせて下さい。だからこれが重なると必ず、これはね今日も苦しいことでした、あそこで一言、言いたいと思いました、けれどもまあグウグウじやありますけれども、辛抱させて頂きまして、結構な修行させて頂きまして有難うございましたが出るようになるです必ず。もうあそこはいわんですみました、それで治っておることでもなからなければ、有難いということもないけれども、一日しめくくった時にです、段々それが有難いことになってくる、そして黙って治めるといういうことは、とてもとても大した事だという体験が生まれてくる。
そういう信心をです内容として酔生夢死を目指さしてもらう、一杯気嫌で一生が送れる、こんな素晴らしいことはない、小さい心の人でも酒飲むと心が大きくなるでしょうが、酔生夢死という、これは漢文なんっでしょうけれども、支那のいわゆる悪い意味なんです。それを合楽風に御理解頂きますとです、そのように素晴らしいことになる、しかも夢の中にこの調子でいきや夢の中に死んでいけるぞと、死ぬることは苦しい事じゃない、もう夢の中に、例えば、くいがあっという間にとれるようなお繰り合わせが頂けるように、そういうお繰り合わせの中に死んでいけれる。
しかもあの世にこの有難いものを持っていけるぞという、そういう信心を目指さして頂くということがです、そういう信心を目指させて頂いてです、日々、そんなら今日もいわんですむ修行させて下さいといったような取り組ませて頂けるよな、信心が生まれたら必ずそれに頂けるのが、私は安楽鏡だと思います。これはもう神様が与えて下さるもの、何故って神様がそういう信心の姿勢が出来たことを喜び安心して下さるからなんです。だから神様の喜びがこちらえ返ってくる神様の安心がこちらえ返ってくるのです。それに例えば何十年間信心はしておっても、ただ我情我欲から離れられない願いのためにです、それこそいくら登っても登っても信心させて頂いても、それは十里の坂を向こうへ登り降りるということは不可能です。だからもう信心の焦点を本当にね、もう紙一重のところなんですからかえるということなんです、ほんな紙一重ですけれども、それが本気にならなければ、やっぱできることじゃないです。
やはりそのきにならせていただくお繰り合わせを頂かなければ、だから今日御理解を頂いたから、今日からとは申しません、けれども御理解を頂いといてもらうとです、いつか本気で自分の信心はこげな信心じゃつまらんと悟らせてもろうて、本当の信心に向きが変わるところから、神様が安心して下さる、その安心がですこちらえ返ってくる、その境地を今日私が頂いた安楽鏡とはそういうことだと思うのです。ですからこの安楽鏡があの世にもつながらないはずがない、いわゆる死生の安心が得られる、そういう高度な願いにもとずいて教祖は全ての御教を解いておられる、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよというのはそういうおかげを受けてくれよということなんです。 どうぞ